くにさき七島藺表

くにさき七島藺表
※提供元:くにさき七島藺振興会

登録番号 22
名称 くにさき七島藺表(クニサキシチトウイオモテ)
分類 その他
登録日 2016/12/07
生産地 大分県
国東市、杵築市
登録生産者団体

くにさき七島藺振興会

大分県国東市安岐町富清3209

http://shitto.org/

登録公示

第22号:くにさき七島藺表

農林水産物等の生産地

「くにさき七島藺表」は大分県国東市産もしくは杵築市産の七島藺を原料として織り上げられた敷物で、一般的ない草の表と比べて、ざっくりとした自然な風合いがあり、5~6倍の強度と2倍以上の耐焦性を持つことが特徴です。そのため、昔から柔道畳、職人の仕事場や劇場の桟敷、囲炉裏を使う農家などにおいて欠かせない敷物でした。
 一般的ない草の畳表は、一目に二本の糸が入る引目織りで織り上げられるのに対し、「くにさき七島藺表」は青筵(あおむしろ)とも呼ばれるように、筵と同様一目に一本の糸が入る目積織りで織られるため、畳目の間が荒く織り上げられます。織り上げ作業は、高品質の表織りの出来る七島藺表の押さえの機構が二つ付いた半自動織機もしくは七島藺表専用として改良された全自動織機を用い、鮮やかな銀青白色で適当な弾力がある七島藺の原草を、製織用に裁断された長さ120cm以上で茎の太さにばらつきがないものを使うこととされています。
 「くにさき七島藺表」は使っているうちに、クリーム色から飴色に変わり、一般的ない草表と違い艶が出てきて味わいが増していきます。近年、琉球畳と言われる縁の無い畳が増えてきていますが、元は古民家などで見られる七島藺を使った縁無畳に由来しており、自然な風合いが好まれ関東圏を中心に高い人気があります。

七島藺は、東南アジア原産のカヤツリクサ科の植物で、主に畳表の原料として使われます。日本に伝わった時期は良く判っていませんが、江戸時代以前、すでに琉球や薩摩藩では栽培から加工までが行われていたと考えられています。七島藺という名称は、我が国での発祥の地が薩摩藩のトカラ列島であり、当時住民が住んでいた島が7つあったところから名付けられました。豊後には1660年以降伝来し、栽培が奨励されたことから別府湾沿岸の地域に急速に広がりました。
 七島藺は、亜熱帯の植物のため高温で日照時間が長いほど生育が旺盛になりますが、一方で表皮が固くなりしなやかさに欠けるようになります。低温に弱く地下茎で冬を越すため、霜などで地面が凍結すると地下茎が損傷して、生育不良や出芽不良を招くことから、平均気温が15度以上で、0度以下の日が続かない温暖地が良いとされています。また、湛水状態だとベッ甲病という赤い斑点がでる病気に罹りやすいため、植え付け後は乾いた状態にしておくことが必要です。このように七島藺栽培には、日照時間が長く降水量が比較的少ない地域で冬場は霜が降りにくい気候が適しており、国東半島はしなやかな畳表を作るための七島藺栽培に最適な地と言えます。
 1750~1770年には各藩の保護奨励により生産が急増し、豊後は青筵の本場として幕末には300万枚におよび、豊後表の名で知られていました。1935年には生産面積1600ha、生産高650万枚に達しました。戦後も、1956年から1958年にかけて再び1500ha550万枚という全国一の生産を誇りましたが、その後、生産地の工業化政策、柑橘振興策等により急速に生産者が減少しました。
 そのような状況下で、2009年に大分県の製畳会社が特産品であった七島藺の産地消滅を防ぐための活動を開始し、生産者のみならず県、市、多くの協力者を得て2010年10月に「くにさき七島藺振興会」が設立されました。当時、生産者は高齢者を中心に5名のみと産地消滅寸前でしたが、その後新規就農者が増えるとともに平均年齢も大幅に下がり、産地復活に向けた活動が展開されています。振興会では、350年の伝統を守りつつ、七島藺のファンのすそ野を広げるための活動を実施するとともに、七島藺の文化を地域共有の財産として守り育てています。

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